澤ゼミ合宿巡検報告レポート
中坊公平の視点 現場主義と弱者への眼差し

橋本 勝人

○ 章構成
第一章 はじめに
第二章 中坊公平と豊島
第三章 さいごに 〜豊島の教訓から〜

第一章 はじめに

 今回の合宿巡検は、豊島・直島と産廃問題について、実際に自分の目で確かめる作業を通して、自分たちの問題として考えることをメインテーマに行われた。その中で私が担当したのは、豊島を舞台とした産業廃棄物不法投棄事件において、最も重要なキーパーソンのひとりである中坊公平氏についてである。この合宿のテーマである「実際に自分の目で確かめる」という部分に照らしてみれば、直接会うことが難しいという理由から(実際に豊島でも宿でのニアミスはあったが実際に会うことはできなかった)、最も目的を達成することが難しい担当分野であるといえるだろう。さらに豊島でも案内してくださった住民会議の方から、実際現場で見てきた産廃についてと、前日に行われた土庄町へのヒアリングから判明した町行政の対応と住民意識との乖離についてお話を聞くことはできたが、中坊氏に関する話をほとんど聞くことができなかったという事情もあり、新たに豊島で聞いたことをもとに中坊公平という人物のイメージを再構築するまでには至らなかった。確かに、現地で感じた自分の知らなかった中坊公平のイメージを綴ることも合宿の目的から見れば重要かもしれない。が、今回は違った切り口で取り組んでみたい。その切り口とは、現場主義と弱者への眼差しである。中坊氏の功績を見るとまさに、差別の構図、弱者が虐げられる現状とそれに対する共闘の歴史であるといえよう。豊島の産廃問題然り、住専問題然りである。そんな中坊氏の姿勢こそが、今の日本社会に求められているのではないだろうか。このレポートでは、そんな中坊氏の姿勢を再確認し、積極的にアピールしていきたい。

第二章 中坊公平と豊島
 
では実際に豊島産廃問題と中坊公平との関わりを見ていくことで、氏の掲げる現場主義と弱者への眼差しを検証していこう。豊島以前の氏の功績については、あまりにも有名であり、かつ資料も豊富に存在するため、この場では概観するのみにとどめたい。
まず、簡単な略歴から。1929年京都生まれ。京大法学部卒。法曹界に入って以後は主に企業の顧問弁護士を務め、百戦百勝の気鋭の弁護士として知られる。転機が訪れたのは森永砒素ミルク事件の顧問弁護士を引き受けてからである。それまでは企業、つまり強者の側に立って弁護することが多かったわけであるが、ここからは弱者、この事件では粉ミルクを利用する機会の多い若い母親と乳児が被害者であるが、彼らの立場に立ち弁護を行うことになるわけである。その後の活躍は周知のとおりである。豊田商事の破産管財人として、住宅金融債権管理機構の社長として、その辣腕を奮うこととなる。そのいずれの場面においても、中坊氏は徹底した「現場主義」と、弱者の立場に立った法廷戦術、債権回収業務を遂行していく。中坊氏が豊島と関わるようになったのは1993年以降、日弁連の会長をつとめあげた直後のことである。そして住管機構の社長に就任したのが1996年。つまり、中坊氏は豊島産廃事件と住専問題という、どちらも重要かつ大規模な事件を両手に抱え込んでいたのである。しかし、二つの事件には同じ構造が隠されていた。それは、豊島の場合には豊島の住民へ、住専問題の場合には国民へと、強者の矛盾が押し付けられるという構図である。では、豊島の問題と中坊氏との関係を見ていこう。
豊島の問題が明るみに出たのは1990年の兵庫県警による産廃業者の摘発によってである。しかし、豊島の住民が中坊公平のもとにこの事件の弁護を頼みにいったのは1993年のことであった。この3年間、住民は何もしてこなかったのだろうか。いやそうではない。香川県を信じ、摘発によって何らかの対策が打たれるものと信じていたのである。しかし県は、調査の結果現場に投棄された廃棄物は全部で16万トンであり、その全ては業者が島外へ持ち出したとして、安全宣言を出したのである。もちろんその後の公害調停委員会による調査でそれはまったくの嘘であることが判明したのであるが。中坊氏はここでも現場主義を実践する。時効の一ヶ月前という時期に行われた依頼であり、成功する見通しは低かった。それでも引き受けたのは、実際に現場を見てその惨状を実感したからであり、住民の取り組みに真剣さを感じたからである。そして中坊氏がとった手段が、公害調停である。氏がこの方法を選んだ理由は、費用の問題である。公害調停では公害があったのかどうか認定するための調査は、国の費用で行われるのである。資金のすくない住民にとっては調査にかかる莫大な費用を国の負担で行ってくれることは大きな助けとなる。また、調査結果の信用性も高まる。ここにも中坊氏の弱者の立場に立った法廷戦術が活かされている。さらに、中坊氏は廃棄物の処理方法をめぐって、島内処理、その後島外へ運び出すという案を受諾させた。これは、廃棄物を一刻も早く島外へ運び出してほしいと考える住民にとっては、受け入れがたいものであった。しかし、その場合住民エゴとして周囲からの理解を得られなくなる恐れがある。また、ほかの場所へと廃棄物を押し付ける結果ともなる。第二の豊島を生み出すことはできなかったのである。これも問題の早期解決を図るため、あえて苦渋の選択を引き受けるという、大きな目で見れば弱者の立場に立った問題解決方法であるといえよう。
以上見てきたように、豊島の産廃問題における中坊氏の影響力、そして徹底した弱者の立場に立った戦略を思えば、この問題は中坊氏なしでは語れないことがわかるであろう。最後に、合宿初日に行われた土庄町へのヒアリングの際のエピソードを紹介して、この章を終わりたいと思う。
それは、産廃問題について町職員にいろいろと伺っていたときのことである。一人の職員がボソッとつぶやいたのである。「豊島の場合はエライ人が来てくれはったからね」と。この“エライ人”という言葉には、二つの感慨がこめられている。それは、本当に素晴らしい尊敬すべき人だ、という意味と、あの人のお陰で偉いことになったわ、という意味と。どちらかというと後者の意味合いが強いように感じられたのはうがった見方なのだろうか。しかし、ここで一番問題とすべきは、本来弱い立場にある住民を守るべき立場にある行政の職員が、このような感慨を抱いていることである。むしろ、基礎自治体である町の職員こそが、現場主義と弱者への眼差しを理解し体現するべき立場にあるはずだ。しかし、彼らの口からは、住民への思いを述べた言葉を聞くことはできず、かえって県に対する強い遠慮が見られた。これこそ、現在の日本が抱える大きな問題である。

第三章 さいごに 〜豊島の教訓から〜
 
以上見てきたように、豊島の場合には本来弱者の立場に立つべき県・町の行政が、逆に弱者を虐げる立場にまわり、中坊氏のように本来は豊島にゆかりのない立場の人が虐げられた弱者を助ける側にまわらざるを得ない状況が生まれる。そんな逆転した状況こそ問題とされるべきだと前章ではのべた。我々が教訓とすべきことは、以下のようにまとめられるだろう。
最初に現場主義について。今回の豊島の問題では、県の職員が何回も現地を立ち入り調査しているにも関わらず、産廃業者の暴力を恐れるあまり、現実を正当に評価することができず、結果として大きな被害を生みだす原因となってしまった。本来の意味での現場主義は、ただ現場に行きさえすればよいというものではない。現場で何が起こっているのか。それを見通す洞察力が必要とされる。
次に弱者への眼差しについて。県や町の行政のあるべき立場は、侵害されやすい弱者の権利を保護するところにあるはずだ。しかし今回の事件では、弱者の立場よりも県のメンツや町の立場が優先され、弱者の意見が無視され続けるという状況が生まれた。豊島の場合には中坊公平という、手腕と実力を持ち弱者の立場に立つ事のできる人物が住民の運動を支えてくれるという幸運に恵まれた。しかし、日本全国に中坊公平はいないのである。全国にある基礎自治体こそが、中坊公平の役割を果たさなければならないはずである。
自分たちの住む街の自治体が香川県や土庄町のように弱者の立場に立ってくれない場合、私たちはどのように行動すべきか、今一度考えてみる必要があるだろう。

参考文献:「野戦の指揮官・中坊公平」 NHKスペシャルセレクション 
NHK住専プロジェクト著 日本放送出版協会 1997

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